興 津 宿

東海道薩た峠振興協議会発行パンフより


興津郷の歴史
  東海道五十三次のうち十七番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていました。
  興津という地名が現在正式地名とされていますが「奥津」「息津」「沖津」とも書き、ともに「おきつ」と読みます。地名のいわれは「宗像神社」 の興津宮を当地に勧請したことに由来するというのが正しい説とされています。当郷は平安時代末期より代々 「興津氏」 の知行地で鎌倉幕府からその知行を安堵され(任され)ています。応永三十年八月(−畠∽)に今川範政に「駿河国興津郷興津宿在家内本知行」とある、興津彦九郎が今川氏親から本知行とされています。興津氏はもともと、今川の水軍であったと推定され、興津氏の名前がそのまま地名になったという説など諸説があります。

興津の宿の規模
  東海道十七番目の宿場ですが、東の由比宿には二里十二町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩た峠」があり、西に至る旅人は峠を越えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を越え由比宿に至ります。
  また、西の江尻宿は一里二町(4.2PNkm)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
  興津宿の宿内、町並みは東西に十町五十五間(1.2km)人馬継問屋場1ヶ所、問屋2軒、年寄 4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立入馬104匹
  天保十四年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)でした。

薩た峠は交通の要衝
  薩た峠は、東の箱根、西の大井川とともに難所として伝えられておりますが、交通の要衝として、昔も今も重要な位置にあります。
  興津の国道52号のすぐ西側に、甲州道(身延道)が興津川沿いに北上します。これは、かつて東海で精製した塩を甲州や信州に運んだ塩の道と伝えられます。この道を進むと身延山、山梨方面に行くことができます。
  交通機関が発達した現在でも、薩埴峠の重要性は変わりません。
国道一号、東名高速道路、JR東海道本線と東京と大阪を結ぶ大動脈の大部分がこの薩た峠を通過し
ています。これだけ主要幹線が集中している場所は全国でも珍しいといえます 。


 興津郷には清見寺、宗像神社、坐漁荘、水口ギャラリー、霊泉寺、東勝寺等があります。
 興津駅北側にある果樹研究所には、日本三代並木の一つプラタナス並木、ワシントンポトマック河畔の桜と兄弟桜薄寒桜、桜のお礼に送られたアメリカヤマボウシなど、貴重な樹木が多くあり、それぞれ花の時期には一般に開放されます。




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