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由比郷は、五十三次の十六番面の宿場である由比宿を中心にした周辺10ヶ村程です。
由比宿の地名は、鎌倉時代以来の書物に散見され、揚井・油井・由井・揚居・由比などと書かれておりましたが、明治22年(1899)の町制施行で由比に統一されました。
由比郷の統治者は、古くは室ケ谷古墳や豊積神社に祀られた人だと思われます。鎌倉時代になると紀氏を祖とする大宅氏の流れとする由比氏が支配し鎌倉幕府に仕え、室町時代になると今川氏の旗下に入ります。
この由比氏の後裔が江戸幕府から本陣職の使命を受け、幕末にいたるまで勤めます。
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江戸幕府が編集した「東海道宿村大概帳」によると天保14年(1843)由比宿の町の長さは8町56間(約974m)町並は東西5町半(約
600m)、宿高は340石余と少なく、戸数は160軒、このうち旅篭屋は32軒、由比は箱根についで旅篭屋の比率の高い宿場でした。人口は707人(男356人、女351人)と記されています。
宿場の中心は本町で本陣1、脇本陣2、寺院5、修験法印1、問屋場が本宿、加宿に各1また、中町には年貢米の保管や凶作に備える共同穀物庫の郷倉や紀州七里役所がありました。 |
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小さな宿の由比は百人百匹という常備の人馬の出役が困難で、寛文五年(1665)に宿場続きの北田、町屋原、今宿の三ケ村を加宿としました。
それでも大変だったので、元禄7年(1694)八ヶ村を追加し、合計11ヵ村が加宿となり、問屋も本宿・加宿の2ヶカ所が1ヶ月交替で勤務するようになりました。
また助郷役を免除したために、常備の人馬で対応できない時は、上りは蒲原宿が由比を通り越して興津宿まで、下りは興津から蒲原まで荷物を附け通しました。
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薩た峠道をゆくと、ビワの木が目につきます。ビワは長崎県、鹿児島県、千葉県の気候風土が温暖な、しかも海岸の傾斜地帯に栽培されていますが、こうした条件に倉沢の地が適合しているとみえて、昔からこの地には小粒な茂木ビワ
が栽培されていました。
明治の初期、西倉沢柏屋に逗留した静岡県令(知事の前身)大迫貞清が、郷里の九州から大粒の田中ビワの種子をとりよせ、柏屋主人幸平翁に贈りました。
幸平翁はこの種子から一本の親木の育成に成功し、その枝を在来種のビワに接木し、忽ちにして倉沢・寺尾一帯に栽培されるようになりました。県下では唯
一ヶ所の 「特産由比ビワ」として有名です。
峠の木々の緑、みかんやビワのオレンジ、富士山や海の青など様々な自然が織り成す造形美は昔も今も訪れる人の目を楽しませてくれます。 |
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東海道十六番目の宿として、江戸からは薩た峠を目前に宿泊する人、薩た峠を越えてホッと一息宿泊する人などで非常に賑わっておりました。
本陣は、間口三十三間(約60m)、1300坪(約4300u)の広大な敷地で、敷地内には179坪(約590u)の母屋、離れ座敷、土蔵四棟などがありました。
本陣跡地は長年当時のままの敷地で残されておりましたが、平成三年からの工事により、「由比本陣公園」として整備が行われ、表門、石垣、木塀、物見櫓、馬の水飲み場、離れ座敷の記念館「御幸亭」など、できるかぎり昔の形に再現しております。土蔵の跡には「東海道広重美術館」を建設しました。 |
由比宿 歴史ある見どころ
由比宿には、まちのあちこちに懐かしい風景が残されています。
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本陣公園の前には、由井正雪の乱で有名な正雪の生家と伝えられる紺屋が、今も当時のままの面影を残して、染物屋が営まれております。
家業は四百年も続き、店に入ると昔ながらのつくりの店内が温かく迎えてくれます。 |
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正雪紺屋の降の黒い板塀の家は、明治時代に利用されていた郵便局舎として当時のままの旧
観を今に伝えています。 |
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薩た峠に向かう倉沢の道(寺尾・倉沢地区)に一歩踏み込むとまるで江戸時代に入り込んだような錯覚に陥ります。
ここは、由比宿と興津宿の間にあるので、あい「間の宿」と呼ばれて、休憩のための茶屋も六軒あったと伝えられています。宿の外れにある「望嶽亭藤屋」は、慶応三年(1867)に山岡鉄舟が官軍の目を逃れ、匿まわれた宿と言われています。逃げる際に残していつたと伝えられるピストルも残されています。 |
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寺尾地区にある小池邸は、明治期に建てられたものを町で購入し改修修復工事を施した建築物で、低い軒の瓦葺きで、ささら子下見板張りの外壁、くぐり戸付きの大戸や格子などに当時の面影を残しており、国の登録有形文化財に指定されています。 月曜休 |
由比宿、薩た峠に関するお問合せは、
東海道薩た峠振興協議会 事務局
由比町 企画観光課(0543)76−0113 |