さった峠
古くから富士山を望む景勝地として名高い名所だった薩た峠



 興津と由比の間に横たわる3キロ余りの峠道で箱根、宇津谷、日坂と並び街道の難所として知られていました。江戸時代の明暦元年(1655年)に朝鮮使節の一行を迎えるにあたり、幕府の威信に関わるとの判断でこの道を開いたと思われます。

  文治元年(1185年)由比の倉沢の浜で漁師のアミにかかって引き上げられた地蔵尊が哀れだというので山頂にお奉りして、それ以後磐城山がさった山と改められました。

  駅から峠入口までは2キロ。ここから中道の山道が始まります。右手に三保半島を眺めながら登っていくと、一番最初に富士山を望むことができるのが東海道標。ここからは緩やかな山道が続き、休憩所の四阿(あずまや)を過ぎると、おなじみの絶景を堪能できる展望台に到着します。
蒼い海岸越しに見える富士山の美しさは訪れたハイカーの心をとらえて離しません。

興津側の登り口には,しっかりとした案内板があります。
また,休憩所,トイレ,駐車場があります。





薩た峠の歴史
  薩た峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・字津ノ谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
  江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ケ原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明歴元年(1655)と記録されています。この年9月、幕府ははじめて朝鮮使節の一行を迎えるに当たり、 国の威信に関わると思ってこの道を開いたものと思われます。

薩た峠に三つの道
  薩た峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。由比側の駐車場から興津方面へ向かう道は、地蔵道と呼ばれています。
     「駒なづむ岩木の山を こえかねて
           人をこねみの 浜にかもわん」
 と万葉の人たちにも歌われました。
  それまでの往来は、海岸の波打ち際を利用しており、到底道と言えるほどのものではなかったことが鎌倉時代の紀行文などによって知られます。
「風 飄々と 翻 て砂をまはし、波浪々とみだれて人をしきる。行客ここにたづさはりて、しばらくよせひくなみまをうかヾひて いそぎとをる。…」 
と「海道記」 にあります。波打ち際を通るときは、親も子を顧みる暇なく、子も親をたよりにすることができないことから「親知らず子知らず」と伝えられています。
  時代を更にさかのぼると、薩た山は昔、磐城山と呼ばれており、その山麓の、今トンネルのある辺りを岫崎(くきざき)と呼ばれておりました。そして興津川の河口付近を「こぬみの浜」と称していました。万葉集の中に
    「岩木山 たヾ越え来ませ いはさきの
          こねみの浜に 我たらまたむ」
  と云う歌があります。こぬみの浜に住む女神の許に、いわきの山を越えて夜な夜な通ってくる男神があったが、山には荒ぶる神が居て妨げるので、女神は浜辺に立ちつくして空しく夜明

磐城山から薩た山へ
 磐城山が薩た山と改められたのは、文治元年(1185)由比・倉沢の浜で小さな石の地蔵尊が漁師のアミにかかって引き上げられ、奇瑞だというので山頂にお祀りしました。それ以降の呼称です。
  以来、数百年山上にありましたが、今は興津側の東勝院に移されて三年に一度だけ開帳される秘仏とされています。開帳の年は何の因縁によるのか、丑・辰・末・戊とされています。

 江戸末期の文久二年(−∞のN)に皇女和の宮が、十四代将軍徳川家茂に降嫁の際、道を東海道に
するか中仙道に選ぶかで議論があったそうですが、東海道は、今切れの渡し(浜名湖)と薩た峠があるために中仙道が選ばれたという話もあるほどです。
  この峠道は、今では、ハイキングコースとして整備されていますが、これがかって大名行列の通った東海道の幹線道路とは信じられません。道の片側を注意してよく見ると、みかん畑の奥に一部分石垣が残り、一段高くなっていてそこまでが昔の道巾であったことがわかります。

東海道薩た峠振興協議会発行パンフより    薩た峠に関する問合せは(054)221-1105

由比町公式HP

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