清水次郎長


清水 次郎長(しみずのじろちょう)
1820年2月14日(文政3年1月1日) − 1893年(明治26年)6月12日)は、
幕末、明治の侠客。本名は山本長五郎。

博徒次郎長の誕生
1820年1月1日、 清水の船持船頭・雲不見三右衛門の子供に生まれ、 長五郎と名付けられました。
叔父の山本次郎八の養子となる。そして次郎八の家の長五郎ということで、縮めて次郎長と呼ばれるようになりました。
悪さと無学の15歳の時、隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったのを尻目に、家の金を持ち出して浜松に米の買占めに行き、大金を手にする。
1839年 旅の僧に余生が25歳と予言され、「じゃあ太く短く生きる」と任侠の道を志す。
1843年 23歳の時、江尻にて芝居見物の後、酔って帰路につくおりに闇討ちに会い瀕死の重傷を負う。
これを機に生涯禁酒を誓う。
博打のもつれから人を斬り、相手を殺したと思い込み、家業を姉夫婦に譲り無宿者となり清水を出奔、 三河の寺津治助にわらじを脱ぎ、喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長。
1845年 26歳  清水に戻った次郎長は甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁して売り出した。
1847年 28歳  江尻大熊の妹(初代お蝶)をめとり清水仲町妙慶寺近くに世帯を持つ。
1858年 39歳 甲州の祐天と江尻大熊の間に争いが起こり、次郎長と大熊は祐天の親分である甲府の隠居
を斬る。この為役人に追われた長五郎はお蝶・子分と共に瀬戸の岡一の家に身を寄せる。
お蝶が病に倒れ、移った先の名古屋の長兵衛の家で帰らぬ人となる。
1859年 40歳  かつて次郎長が親身になって世話をした八尾ケ獄宗七(久六)の密告により、捕吏が長兵衛宅に踏み込むが、次郎長は逃げきり、長兵衛は捕われ牢死すした。
大政・石松等を連れ金毘羅参に詣でたのち、久六を斬り、長兵衛の怨を晴らす。決戦前の金比羅詣では、実父の金比羅信仰を継いだもののようです。
1860年、41歳 久六斬りの祈願成就に、森の石松を金比羅に代参させたが、その帰路の途中で都田一家に石松が殺され、その仇を討って三河を勢力圏に収めた。この頃、宿敵・黒駒勝蔵が現れる。
1866年 47歳  桑名の穴太徳に縄張りを奪われた伊勢の神戸の長吉は吉良の仁吉に救援を求めていたが、清水(次郎長)一家22人も仁吉に加勢する。荒神山にて穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い穴太徳の弟分角井門之助を倒すも仁吉・法印大五郎は命を落とす。
次郎長は憤慨し、穴太徳に再び挑む。その報復に次郎長は千石船2隻に手勢480人、銃40丁、槍170幹、米90俵を乗せた戦略艦隊をもって伊勢に上陸し、穴太徳とその後ろ盾・丹波屋伝兵衛を屈服させる。
この一件以来「清水次郎長」の貫禄は増し、その名は全国に知られる事となる。
海道一の次郎長の喧嘩は、日本一の喧嘩。
維新の内戦が始まる。維新中は、志士達に協力していたようです。

 

幕末における次郎長
1868年3月、東征府判事の伏谷如水から街道警固役を任命された次郎長はこの役を7月まで果たす。同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が仲間と艦隊を率いて品川沖から脱走。脱走艦隊の咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し修理のため清水湊に停泊する。8名の見張りを残し乗員の下船中に新政府海軍が咸臨丸を発見。交戦が始まる。結果見張りの船員は全員死亡し咸臨丸は拿捕、曳航された。残された遺体は駿河湾に放置されたが次郎長は小船を出してこれを収容し向島の砂浜に埋葬する。当時、駿河藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟はこれを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡、榎本と交際をもつとされる。

明治における次郎長
清水の外港を整備して蒸気船が入港できるように地元で訴えたり横浜との定期航路線を営業する静隆社を立ち上げてお茶の販路を広げようと奔走。県令大迫貞清の奨励により囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾をしたり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。家族関係では、彼の不在中に久能山の衛士に三番目の妻を殺されている。有栖川宮に従って新政府軍にいた赤心隊や報国隊旧隊士が故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起こるが次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。
1893年、風邪をこじらせ74歳で死去。梅蔭禅寺にて葬る。